ワールド・ピザ・カルチャー
Chapter 06 ピザ、アメリカに渡る。
1880年代より、イタリア人のアメリカへの移民がはじまり、それは世界的な大恐慌なども相まって500万人を超える規模となりました。当初彼らは若い国アメリカで稼いだ後祖国に帰る予定でしたが、戦争がそれを困難なものにし、定住を余儀なくされたようです。彼らの多くは貧しい南部、特にシチリア島の農民たちでした。そして定住の過程でだんだんコミュニティーを作ることとなり、やがて、有名なリトル・イタリーが各所に出来ることになります。
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ニューヨーク、リトル・イタリー最初のピザレストランロンバルディーズ。写真は10年以上前のもの。
1905年にイタリア食材店を営業していたジェンナーロ・ロンバルディーがニューヨークのリトル・イタリーにアメリカで初めてのピザレストランを開くことになります。(このロンバルディーズはいまでもニューヨーク・リトルイタリーの一角で営業を続けています)1912年には、ニュージャージーに「ジョーのトマトパイ」がオープン。その後ロンバルディーズで働いた人たちが各所でピザレストランをオープン。1930年代の「トマソズ」などにより、ピザは一気に広がりを見せました。
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現在のニューヨーク、リトル・イタリーは、
隣のチャイナタウンに押されて縮小されている。
ニューヨークと並んでイタリア系移民の多い街シカゴでは1943年、後にシカゴの名物となる有名なディープディッシュピザが,アイク・シーウェルの「ウノ」によって誕生しました。
リトル・イタリーのあった地域はその頃他の白人たちの住んでいる地域よりも貧しく、そんなイタリア人にとって祖国のピザはおいしくて安い,ぴったりの食事だったと言えるでしょう。
またさらに、第2次世界大戦,イタリアはヨーロッパで参戦していたアメリカの帰還兵たちが,彼の地で食べたイタリアンピザをアメリカでも食べたいと思ったことも、アメリカのピザ文化を広げる大きな要因と言えるでしょう。
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シカゴディープディッシュピザの第一人者、「ウノ」
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その昔イタリア人街では、レストランに行くお金がない時には近くのベーカリーで自家製のピザを焼いてもらったりしたそうです。
そんな帰還兵の一人、「アイラ・ネヴィン」は、戦争中の経験と実家のオーブン修理業務をベースにして、世界で最初のガスオーブン会社「ベーカーズ・プライド社」※を設立。このピザオーブンのおかげで、アメリカのピザ屋やベーカリーが簡単に早く、クリーンに、そして安価にピザを焼くことが可能になり,さらに多くの人々の口に入ることになりました。
※当時シカゴでイタリアンレストランを経営していたフランシス・ポンティセリはこのアイラ・ネヴィンと共同で本格的なピザのクラスト製造会社(Tolona Pizza Products)を設立。そのクラストを日本に輸入していた会社が私たちシカゴピザの最初の出発点でした。シカゴピザ創業当時のオーブンは伝統的なベーカーズプライド社のガス式デッキオーブンを使用していました。
参考文献:wikipedeia/イタリア系アメリカ人
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シカゴの最も古いリトル・イタリーのひとつ、テイラーストリートにある、シカゴで一番古いピッツェリア。
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シカゴの有名ピザ店で使われているベーカーズプライド社のデッキオーブン。